宗乗寺は享徳二年(1453)曹洞宗長興寺二世大用宗顕大和尚によって開創された。
曹洞宗は大本山永平寺開山道元禅師(1200-1252)によって聞かれ、大本山総持寺を含め、末派一万五千ケ寺は単独宗派では日本最大の教団に発展した。
宗乗寺は大本山総持寺の直末榛原郡相良町大興寺の流れを汲んでおり、境内地三千坪、檀信徒八百五十戸と十一ケ寺の末寺を持ち、五五〇年の伝統を持った由緒ある古利別である。このため徳川幕府より朱印地五石八斗の寺領安堵を受けた。
閉山大用宗顕は京都宇治の生まれ、七歳の時奈良真言律宗法華寺にて得度、四歳の時比叡山に登り、三七歳で山を下り洛東東山に草庵を結び人々に講義教化していた。
ある時この講義に一老僧が参加し、問答を行った。この老僧こそ榛原郡長興寺(宗乗寺本寺)を関創した大珍英析であった。その教えを受けた大用はただちに京都の庵を出て遠江園長興寺大珍の弟子となり座禅修行を続けた。
享徳ニ年(1453)大用宗顕四七歳の時、前島村(現小石川町)に来て、有力者前島氏や村人に禅の教えを説いた。村人もその人徳に感化され堂宇を建立し土地の名をとって山号を「前島山」とし宗乗寺を開創した。大用は応仁元年(1467)六月十七日六〇歳で示寂した。
関創後、宗乗寺は修行僧を育てる衆寮を備えた古叢林と呼ばれ、三世蒲岸全忠は養雲寺(宗乗寺に吸収合併)と興福寺を聞き、四世行室宗順は円成寺と東泉寺を、五世一天存最は八楠に正伝院を、六世茂客長栄は大洲に伝栄寺を、八世嶺山韓石は高洲に栄昌寺をそれぞれ聞き、関山の宗風を広めた。
宗乗寺伽藍の歴史は、災禍の戦いであった。明応七年(1498)大地震で本堂、庫裡倒壊、五世一天存最の時再建。享保十六年(1731)本堂、庫裡火災、十三世凹海立玄の時再建。
この落慶法要の時、山号を「大雄山」に改称し「三ツ大」の寺紋も制定した。
そして天保九年(1838)再び本堂、庫裡火災。同十一年(1840)衆寮(修行僧の寮)の火災発生。嘉永元年(1848)可睡斎より五十両借用し、嘉永四年(1851)ニ十一世竜山太眠の時、本堂再建。
その後、安政元年(1854)安政大地震により諸堂破損、明治十九年(1886)茅葺き屋根、瓦に葺き替え、平成十一年(1999)本堂解体。
平成十ニ年(2000) 三十一世正見和尚本堂を再建した。